巷ではNESARAなるものが期待されています
サンジェルマン伯爵により用意された資金とされ
オバマ大統領が承諾のサインをしたと言われる
大衆を潤すための豊饒化資金の分配です
実施されれば喜ばしいかぎりですが
NESARAを期待することが中心になれば
本筋を外れてしまいます
外から満たされることを期待するのは
本来の自らの豊かさを否定することになり
NESARAとも縁が結ばれなくなる可能性が
あるからです
意識を向けるべきは
どこまでも自らの根源であり
外部への期待をゼロにして
空(くう)なる本源とつながれば
無限なる豊かさとひとつになり
歓びが湧きあがってきて
幸せそのものであることが
感じられます
状況に左右されない絶対なる幸せは
根源との確固とした結びつき以外にはなく
それは如何なる条件も課せられず
万人に可能なことなのです
その可能性が開花すれば
外なる世界も自然に潤うのです
絶対なる幸せが湧き出づるのを
阻止しているのはエゴに他ならず
自分とエゴとの同一視を外せば
今すぐにも可能なのです
マスコミの伝えることを鵜呑みにし
世の中の常識を信じつづけるならば
苦悩からは解放されなくなります
また、過去に拘りつづけるならば
重荷を背負いつづける人生になってしまいます
実際に過去はなくて
今しかないのですが
連続して見えるために
過去を反芻し、何度も辛い想いを
くり返しています
時空を超えた根源から送られてくる
いのちのパワーはつねに新しく
いかなる影響も受けていなくて
一瞬前とも関係なく
まっさらのエネルギーであり
完璧なるはたらきをします
ところが
肉体人間は想いをつまらせているために
まっさらのエネルギーを
そのまま100パーセント受け取れず
気枯れ(穢れ)を起こして
本来のままではなく
支障を生じてしまうのです
人間は傷つけられたり裏切られたりすれば
なかなか忘れられず
後生大事に抱えてしまいますが
自分にとってはマイナスなだけであり
許すのは相手のためというより
自分のためなのです
相手が謝ってくれなければ
絶対許さないと思われるのもムリありませんが
それでは自縄自縛することになり
苦しむのは自分なのです
一つの件にかぎらず
全体的に見れば
やったやられたはお互いさまであり
偶然に意味なく起こることはなく
そうとしかならなかったのです
というか、そういう体験をしたかったのです
苦悩から解放されるためには
一切の過去を流してしまい
時空ではない今と完全につながるのです
目覚めるということにおける
自力と他力は分けられるものではありません
自力であり且つ他力なのです
自力という点は
自ら目覚めを望まなければ
他者がどうすることも出来ません
馬を水飲み場に引いていっても
水を強制的に飲ませることが出来ない
のと同じことです
では他力とはどういうことかと申しますと
自力はエゴの力であって
エゴがどんなに頑張っても
エゴ自身が目覚めることは出来ないのです
エゴはどこまでいっても
エゴを超えられないのであり
エゴを離れた力が必要なのです
ここでいうエゴを離れた力とは
空(くう)なる根源の絶対的な力であり
それに委ねるしかありません
すなわち
目覚めにおける他力というのは
横並びの他者を指すのではなく
エゴを離れた絶対的な力なのです
その不動の絶対的な力に依らなければ
何人も目覚めは不可能なはずです
まずは、他者に依存することなく
目覚めたいという意図を自ら発し
究極的には、存在をあらしめている
すべてなるものに帰依して
エゴを超えるのです
本人次第で
何時でも何処でも可能なのです
だれもが空(くう)の内にあり
外にあるものなど存在しないからです
いのちは一つであること
存在は一つであること
ただただそれに尽きるのですが
人類の意識は千差万別であり
世界は複雑怪奇になっていて
話せばわかるというように
単純にはいきません
すごく若くて
今生の体験をあまり積んでいなかった頃は
話せばわかると思っていた時期がありますが
様々な人種や民族に接するにつれ
話してもわかるものではないと
思い知らされました
同じ日本人であっても同様です
逆に、話せばわかる相手なら
話さなくてもわかったりします
ベストを尽くして
話す内容を理解してもらおうと試みても
言葉というのは限界があります
言葉そのものに対する理解が
人により異なりますし
習慣や文化的な背景
体験や認識力の違いにより
通じないということが珍しくありません
まして五感に感じられないことなどは
どんなに言葉を尽くしても
通じない相手にはお手上げです
そうとはいえ
あらゆる概念や先入観を無にして
ハートを開けることができるなら
真実は自ずと知らされるものであり
人種民族の違いなどはありません
究極的には
後天的な洗脳度の強弱により
根源への回帰の難易が生じます
大多数の人間は依存心が強く
強いリーダーや指導者を求めます
力を有した支配者たちに
そのように洗脳されてきたせいでも
ありますが
何度もくり返していますように
個々の存在に優劣や上下はなく
一つなるいのちの兄弟姉妹であり
他に権威を求め認めるのは
間違っているのです
帰依する先はお釈迦さまでもイエス様でも
ありません
まして宗教組織などではなく
真実なる自分そのものが大いなるものであり
帰依する先なのです
多くの方たちが自分を知らず
自分を見つめ探求しようともせず
自分で自分の道も決められず
安易に占いに頼ったりします
それゆえ
いろいろな占いが花盛りであり
いわゆる霊能者といわれる者に洗脳され
食い物にされる方が少なくありません
溺れる者は藁をもつかむ
ということわざがあるように
誰かによって救われたいと願うのですが
自分を救えるのは自分しかないのです
占いや他の霊能者によって救われるものなら
もうとっくに人々は救われていたでしょう
狐や狸、霊能者に帰依して助かるどころか
身ぐるみ剥がされたりすることが
珍しくありません
霊能があるからといって
霊性が高いとはかぎらず
霊能力の有無は基本的に関係ないのです
霊能力ゆえに身を滅ぼすことも
少なくないようですから
超能力の開発を目指すことは
道から逸れる危険性が大です
そんなことよりも
真っ直ぐに直接に空(くう)なる根源を
目指したほうが賢明です
帰依する先は
真実の自分なのです
何かの役に立ちたいと思えば
まず自分を鎮めることが肝心です
自分が波立ち平安でなければ
ほんとうに尽くすことはできないのです
あまり幸せそうに見えない方が訪れて
宗教の勧誘をされたりしますが
自分が救われていないのに
他者を救おうとしてもムリがあります
世界平和を標榜することに
異議はありませんが
その前に自分が平和でなければ
叶うことではありません
自分の外に世界があるのではなく
自分が世界を創造しているからです
千々に感情が乱れて
思考に振り回されていては
真実に気づけず
ほんとうの自分を知ることができず
誤解を土台にしていては
建設的な創造はできないということです
迷いのなかにある者が
望みもされない干渉をすることは
余計なお世話となります
何をしていても何をしていなくても
いいのですが
あらゆることの前提に
真実の自分の座についていることが
求められます
エゴではない真実の自分というのは
愛であり光であって自他の区別はなく
存在そのものが至福となります
そうなれば
すべては収まるところに収まる
とわかりますから
いかなる心配もないのです
私というのは空洞のパイプであるというのは
受信器であり発信器だとも言えます
何を受信し発信するかといえば
いのちそのものであり
いのちのエネルギー、パワーは
つねに新しく瑞々しく流れこんできています
出来ないとか才能が乏しいと言われる者は
そのエネルギーを
エゴが邪魔をして最大限に受け取れなく
しているにすぎません
ラジオを聴くときにチャンネルを
ちゃんと合わせなければ
雑音が入り聴き取りにくいように
根源に集中しなければ散漫になり
受信しにくくなるのです
太陽がいかなる差別も区別もなく
万物を平等に照らすように
根源からのいのちは
万物に公平に注がれています
公平ではあっても
表現方法が千差万別であって
現象の姿形は異なります
根源からは無限なるエネルギーが
流れていて
あらゆるものに注がれていますから
人間の常識となっている
人により才能の多寡があるというのは
誤りです
役目により発揮する才能が異なりはしますが
本来、才能が乏しい者はいず
本人の思い込みにすぎません
過去世からの思い込みも
潜在意識に積みあがっていますから
そう易々とはいかないかもしれませんが
想いのクセを取りさえすれば
凡人と看做されている者でさえ
天才性を発揮できるのです
だれもが空(くう)と一体であり
一つのいのちしか存在しないのですから
個我の私というのは根源を忘れているゆえに
エゴそのものが自分自身と思いこみ
非常に限定した視野しかもてず
誤解と妄想に囚われるために
問題と困難をつくりだしてしまうのです
私というのは在るようでも無いのであり
なかが空洞のパイプのようなものです
そのパイプががらんどうで
何の詰まりもなければ
根源からのエネルギーがスムーズによく通り
人生がうまく運びます
ところが
分離したエゴを自分だと思いこんでいますと
妄想がパイプを詰まらせ
本来のエネルギーや叡智が通りにくくなり
苦痛や苦悩を生じさせてしまうのです
我の想いでなんとかしようと頑張るより
空洞のパイプに徹して
根源からのはたらきかけに任せるほうが
はるかに何倍にも上手くいくのです
私などにしがみつかず
渡してしまうのです
どのような状況にあれ
わたしたちは一瞬たりとも
根源のいのちから切り離されることはなく
想いを向け、ハートを開けば
即、豊かなエネルギーが
流れこんできます
最悪と思えるようなときは
ハートを閉じて
パイプを詰まらせているせいであり
開け放てば回復できるのです
自分のハートは自分でオープンにするしかなく
根源でさえ干渉することはありません
肉体を養うには
自分で食べ物を食べなければならないように
誰かが代わりに食べるわけにはいきません
それと同じく
私をわたしてしまうのも
自らの意思でするしかないのです
人間はヴィンテージやらプレミアム
なるものを好みます
貴族や王族、著名人、超お金持ちセレブ
なる人々には特別な存在としての
視線を送ります
まあ、そうはいっても
そのようなレッテルに惑わされない
洞察力に目覚めた人々が
日々増えてきてはいますが
まだまだレッテルを有り難がる者が
多数を占めています
生まれや素性に拘るのも
一面ムリないことではありますが
それに囚われているかぎり
真の自由へとは飛躍できなくなります
現状がどうであれ
それにいっさい関係なく
真っさらに真っ白にして
形も何もない空(くう)に戻して
純粋無垢なる意識に立ち返らねば
ほんとうに生きることができないのです
生物としてのいのちを維持するだけでは
本来の意図から外れ
生きがいを感じられず
歓び生きられません
物質的に潤って
好き放題に欲望を満たし
快適に生活ができても
人間の本質から外れていては
ハートを満たすことができません
社会的なレッテルがあってもなくても
そんなこととは関係なく
本質にどれだけ沿っているかが
肝心なのであり
裸の自分の在りようが
問われるのです
どんなに豪華な衣装を着飾り
化粧をほどこして外見を取り繕っても
高次から観れば
素っ裸の状態が見え見えなのです
誰も見ていないからちょろまかす
なんてのは無知なゆえにできることであり
天網恢恢疎にして漏らさず
ということが事実であることを
知る必要があります
行為や言動のみならず
心のなかで思うことすら
天地に映っていることを
知らねばなりません
天地を偽ることなどは不可能であり
いかなるレッテルも通用しないのです
周囲の木立が赤や黄や橙に色づいて
美しくて癒されます
自然の恵みは計り知れず
土の内外で小さな虫たちが
一途に生きています
彼らは人間の気が知れないねえ
とため息をついたりして
せっせと自分の役目を果たしています
自分の受け持ちを楽しんでいたら
楽々とお互いに生かしあえるのに
欲張ったり蹴落としたりって
なんなんだろう・・・・・?
それが高等生物 !?
特別でありたい病 !?
毎年、クリスマスには
ポインセチアを入手していましたが
引越しをした一昨年には
部屋が寒すぎたせいか
クリスマス前に枯れてしまい
(≧≦)
昨年はピンクのシクラメンにしました
すると
何ヶ月も元気に咲きつづけてくれて
次第に花が落ち、葉も少なくなったのですが
毎日、声かけをしていると
今は葉がパカでかくなり
(ゴメンネ、もっといい表現がありそうなのに)
花もいくつか咲いてくれて
にんまりしています
たった一粒のごく普通のトマトの種から
バイオテクノロジーも特殊肥料も一切使わず
一万三千個も実のなるトマトの巨木を作ってしまった
野澤重雄氏のように ― 出典: 地球交響曲第一番
愛情を注げば確実に応えてくれるのですね
3匹の猫ちゃんたちは
食っちゃ寝だと世話がやけないのですが
食っちゃクライ(cry)状態で
木や石ころがいっぱいの外で遊んでいればいいのに
すぐ戻ってきてはわたしを呼んで
鳴き声をあげるのです
どの子もかまってちゃん
遊んであげてもキリがなく
もっともっととせがみます
とはいえ
キッチンで料理中のときは邪魔をせず
黒猫のマリはカウンターの上で
神妙にわたしの手先を見つめています
わたしたちは無限の可能性をもちながら
且つ、ただ一つを除いて
他にできることはないのです
矛盾したような話ですが
それが真実です
ただ一つのことというのは
真実の自分であることです
末法の世といわれる現在は
完全に自分を見失って
にっちもさっちもいかなくなり
このピークを超えることにより
多くの人々に
真実の自分への扉が大きく開くことに
なっています
何でもしたいことをして
何をして何をしなくても
あらゆる試みも結局
真実の自分を見いだすことなしに
満たされはしないのです
どこに行くわけでもなく
元来の自分に落ち着くまで
けっして安心できないようになっています
何かしっくりこない
何かピタッとはまらない
何か違和感があるというのは
自他に対する想いや思考が
本質から外れているゆえなのです
消えることのない満足や至福は
外部的なものでは叶えられず
すでにそうである真実を
思い出すしかないのです
それは自分が出てきたところに
帰還することであり
空(くう)と一体化し癒されて
真に自在なる創造へと飛躍できるのです